2007/10/22

27. 少数民族の憂い

アンティークの民族バングルをめいっぱい着けている私だが、やっぱりお手頃で味のあるシルバーなカレンだなって思う。
昨今のカレンシルバーはシルバーって言っちゃ〜アカンだろっ?と思うチープで軽いメッキも出回っている。
日本の手芸屋さんなんかに売っているのはこの類が多い。
刻印や形だけそっくりそのまま真似したヤツね。
メッキはメッキでメッキが好きな人が買えばいい。
でも、たまにこれらを本物のカレンだと信じて、かぶれたとか金属アレルギーが出たとか言う人がいる。
 仕方ないよ。
 だって、それニッケルだもん。
 シルバーじゃないし。
心の中でそう思う。
ウチでは扱っていないので、お客さまからの苦情はない。

しかし、カレンは可哀想だ。
メッキのパチモノなんかまだマシな方だ。
カレンシルバーの技巧をもって、スカルだのティファニーもどきのチャームやら、彼らが見たこともない動物や文字のモチーフを作っている。
いや、作らされているというのが本当だ。
では誰に?
儲かればなんでもやる資本主義万歳のどっかのバカにだ。
そんなバカは世界各国いるもので、もちろんジャパニーズのバカもいる。
バカは売れれば何でもやる。
自分がさも流行を仕掛けたイケテル気取りでカレンシルバーを語ったりする。
バカが作らせる物には愛がないのですぐわかる。
彼らには愛など関係ない。
売れればいいのだ。
金になればいいのだ。
好きにやってくれ。
カレンシルバーにはぬくもりがある。
そして愛がある。
だから価値があるのだ。
知らない人もいるけれど、カレン好きになればきっとわかってくると思う。
愛の意味が。

しかし哀しいかな、現実はバカの発注するものでカレンシルバーはまだカレンシルバーとして生き残っている。
元々のシルバー細工とは違ってしまったけれど、他の民族に比べればまだマシだ。
カレンが作るものの中には、モン族やアカ族、他の民族のモチーフやレプリカもある。
これらは最近作る物なので出来映えの違いを見れば本物の民族の物でないことはよくわかる。
中国の少数民族シルバーも、お金大好き金満福福の漢人に牛耳られつつあるのが現実だ。

「他の民族もシルバー作ってるの???」

ご来店のお客さまからよく出る質問だ。
作ってるますよ、と言うより、作っていましたって過去形の方が相応しいのかもしれない。
少数民族はその身を飾る品々に手の込んだものを着用している。
衣服は糸を紡ぎ、染め、刺繍を施す。
それらは彼ら民族独特の特徴のある物である。
装飾品も同じだ。
同じように見えるシルバーでも、それぞれの民族によって特徴があるのだ。
特徴だけで言えば、申し訳ないがカレン族の物が一番プレインかもしれない。
銀の加工や刻印の緻密さ、レリーフを作るという点からでは、ヤオ族に比べると見劣りしてしまう。
でも、今現在、他の民族に素晴らしい銀細工を作る技能が残っているかというと、残念ながらその伝統工芸は消えつつある。

よく考えてみれば、時代は21世紀なのだ。
グローバルという言葉もすでに死語ではないかと思えるほど世界はどんどん均一化してく。
日本人だって着物を日常着としていないだろう。
車に乗り、携帯電話を持ち、フローリングの部屋に暮らしているではないか。
そういう便利で豊かに見える暮らしというのは、実際どんどん世界を浸食している。
少数民族が少数民族らしく暮らしていけないのが現実。
現金収入を得る中で、彼らが失った伝統工芸はもう無くなってしまうのも近い将来だろう。
技術を受け継ぐ次世代がいないのだから。
その点だけを見ると、資本主義に目をつけられたカレンには生き残りの道が残されている。

私は、どうにかしたいと思う。
度々チェンマイに行くには、そういう理由もある。
仲良くなったアカ族やモン族の若い世代に、援助を求められることはホントによくある。
でも、彼らが望む援助は、今の暮らしを豊かにすることでしかない。
まるで日本の戦後の歴史を見ているような錯覚を覚える。
今、豊かになるのは大切だけど、それだけを追いかけると大変なことになるのよって。
今の日本に病んだ社会現象は、大切な物を捨ててしまった私たちの代償だと思うからだ。
私は、彼らにはそういう道を歩んで欲しくない。
社会が成熟した欧米人が今ヨガや東洋医学にはまっている。
科学技術で生活を便利にしたツケが地球をひずませている。
それら経験した私たちは、今頃になって自然だの環境だのエコロジーだのと声高に叫ぶ。
そんな回り道を彼らにはしてほしくない。
伝統工芸の技術技巧を消してほしくない。
どうにかせんといかん。
彼らと仲良くなればなるほど、胸が痛む今日この頃だ。

どの少数民族も似たような現状だ。
この憂いの解決策はまだないだろう。
若い世代は豊かな社会への憧れがあり、原点回帰するにはまだまだ時間が必要だろう。
その間に、彼らへ技術を伝承する人が残ってくれることを願わずにはいられない。
できれば、バカに身売りせず、いい腕を残していてほしい。

さあ、どうしたものか。
私に出来ることは何だろう?

2007/08/31

26. 郷に入れば郷に従ってみた。

これな〜んだ?
2007年、微笑みの国タイランドで爆発的ヒットアイティムです。
街中どこでも売っている。
中味だけを売っているところもあれば、ケースだけを置いているところもある。
カタログもあって、TUKTUKの兄さん達が客引きも忘れて熱心に見ていたりする。
あれがいい、これが欲しいと、数人集まって熱心に議論してたりする。

いい大人が何やってんだか・・・(--;)
最初はそう思っていた。
しかしタイへ行くたびに気になって気になって、私はついに自分用を購入してしまったバカだ。
なんでも納得せんと金は出さん私ゆえ、これが一体どんな代物なのかをリサーチするのにちょっと苦戦した。
聞く人によって違うこと言うのは、古今東西よくあることだ。
ましてやヒットアイティムで、老いも若きも男も女も、みんなが首から下げてるものだから、それが一体何なのか、どんな効能があるのか、噂が噂を呼んで真相を探るのは容易ではない。

ホントかどうかわからないが、リサーチの結果を総合すると・・・・

《数年前、タイの南の方(スラタニ辺り)のお寺に一人の坊さんがいた。
この坊さんは小乗仏教徒というよりヒンズー寄りの教えを実践していたそうだ。
ヒンズー教徒の人たちが持っているグッズも作った。
それがこの真ん中に入っている粘土で固めた信仰グッズだ。
人々がよい方向に導かれることを願って、そこのお寺で販売活動をしていた。
とても人々のために尽くしたらしい。
貧しい人を助けるのはもちろん、村の人々のためにグッズ販売やドネーションで得たお金を有効に使って力を尽くした立派な坊さんだった。
数年たち、坊さんが亡くなった。
坊さんの偉業に感謝して、村人達は棺桶に入った遺体の前で記念写真を撮った。
すると、どうだ!
坊さんの優しい笑顔が光の輪の中に現れたそうだ。
その後、遺体の前じゃなくとも、坊さんと親交のあった村人たちの写真には、満面の笑みの坊さんが写ることが多くなった。
その写真を持った人は、たいへんありがたがったそうだ。
そして、良いことがあったそうだ。
そんな噂が噂を呼び、坊さんを知らない人でも良いことを願う人が増えてきた。
坊さんの恩恵を受けるのに持ってこいのグッズがこれだ。
写真に光やスマイルが写らない人々にも、このペンダントを持っていれば良いことが起こると言われるようになった。》

らしいよ。。。

なんだよ、心霊写真かよ。。。(--;)
そういうのは宜保さんに祓ってもらうもんだぞ、日本では。
って私は思ったけどね。

このグッズは屋台でもタラートでもどこでも売ってるけど、お寺での販売活動はスゴイよ!
バンコクのヒンズー寺院の前では、スタッフの方々がおそろいのTシャツ着て予約受け付けているもん。
そうそう、これは予約販売でゲットするのが真にありがたいそうだ。
みんな予約を受け付けて、ワット・プラマハータート(ナコーンシータマラート県)に発注するそうだ。

ちなみに私は真夜中のルンピニで血迷ってゲットしたのだがな。
図柄はやっぱりガネーシャでしょ!
タイ人らしくゴージャスなバージョンだ。
紐も金々メッキの飾りもいかにもって感じがする。
どうせなので、両脇に下げる小さなガネーシャもゲットした。
金々メッキの飾りの中も教典らしきものを入れてみた。














表はガネーシャ、裏はビシュヌにしてみたアルヨ。

仏教国とはいえ、なぜにヒンズーの神様なんだ???と思っていた疑問は、真相を聞いて納得に変わった。
図柄はもっといっぱい種類がある。
中に金々貼り付けたのもあるし、カラフルに塗った物もある。
セラミックのものもあったりする。
図柄によって願いや効能も分かれていたりする。

あ〜、アメージングタイランドだね。

そそ、ちなみにこのグッズは《チャトカム》と言う。
私はタイにいるとき、いつも着けている。
ブームが去るまでは着けておいた方が何かと優遇されたりもする。
お寺にお参りも欠かさないし、タイ式でお祈りもするしおみくじも引く。
なかなか、私もアメージングな人材だ。
ある意味国際人か?
万国共通レベルでバカ度が高い自分を褒めてやろう。


おまけにバンコクのヒンズー寺院前での販売促進活動のレポート写真を載せておこう。




















イカシた兄さんだろっ?(o^^o)
調子イイ感じ漂うのですぐにタイ人だとわかりますね。
兄さんが着ているはスタッフTシャツだ。
ワシはそれが欲しいと言ったのだが、これはスタッフ限定なので売れないと言われた。
でも、チャトカムを予約しないかと勧誘された。
いやいやいや、、、結構よ、とお断りすると、ほいじゃ友達がやっているマッサージに行かないかと割引券をくれた。
そね、そういうところに国民性が表れるわね。
だから好きよ、タイランド♪

みなさん、幸せになりますように☆ミ

2007/06/27

25. 瞑想






瞑想できますか?









私は妄想は大の得意だが、瞑想は全然出来ない。
人間が腹黒い証拠だろう。

タイのお寺で、図らずも瞑想する機会を得た。
私はあぐらが組めない。
もうその時点で苦手意識の塊である。
それを理由に、「ワシはできましぇん」とカミングアウトしようとしたが、辺りを見回すと、足を崩しながらもじっと瞑想している方がおられる。
これは断りの理由にはならんようだ。
「彼女は瞑想できないし、足にハンディキャップがあるからちょっとだけにしようね。」と、珍しく旦那が友達に伝えた。

あんた、ワシをダシにしたね。
時間短縮を企んだね。

「そうね。じゃ30分だけね。」との返事に、旦那のシドロモドロの困り顔。
30分という時間は、彼女にとってはめちゃ短い単位なのだが、初心者の我々には長すぎる。
「う、うん、そうだね、、、だいたいそんなもんでね。」と、うろたえる旦那はブラッドピットと同年だったりする。(ついでに私もだけどな。)

私はホントに初心者なので隅っこに座った。
すでに老若男女が、組んだ足に白い布を垂らして真面目に深い瞑想に入っている。
私語はもちろん慎まねばならん。
ゆっくりと準備する振りをして、ちらちらと見回せば、都会のOLっぽい綺麗なオネエサンもお金持ちそうなオバサマも、黄色いポロシャツがなかなかイカしてる庶民派のおっちゃんもイケメンの兄さんもおる。

なんで瞑想なんかしとるの?

もうこの段階で、ワシはこの場にいる資格がない。
このクソ暑いバンコクの日中に、わざわざ寺参りして瞑想する意味がわからない。
隣で友達が瞑想に入った。
その向こうで、自称:仏(ホトケ)のマコちゃんもあぐらを組み目を閉じている。
心の中で、私みたいな者がこのような神聖な場所に入ってきちゃってごめんなさいと、お釈迦様に百万回謝ることにした。
そうしたにも関わらず、「暑いな」「静かだな」「みんな信心深いな」などと要らん妄想が走る。
なんでみんな信仰心があるんだろう?
何を真面目に瞑想してるんだろう?
何かとても困り事でもあるのだろうか?
瞑想すれば救われるというのだろうか?
慈悲の心って一体なんだろう?
私が今直面している大きな試練は、信仰心を持てば乗り越えられるのだろうか?
いろんな疑問が沸いてきた。
すでに心が騒ぎ出している。
もはやこれは瞑想とはほど遠い位置関係の妄想族の集会のようなもんだ。

やはり私は、とてもキャパの小さい人間だということが実感できた。
それが、そう、それだけが、私の瞑想の成果である。

「さ、これくらいにしない?」
一番に声を掛けたのは、やはり仏のマコちゃんだった。
まだ10分くらいしか立ってねぇじゃね〜か?
「アイコ、OK?」と友達は私を気遣って切り上げてくれた。
いや、今のはどう見ても旦那のマコちゃんのギブアップだと思うのだけれど。。。(--;)
ま、いいよ、そんなこたぁ別にいいけど、、、さぁ。。。
「キミは瞑想できたかい?」
ほらね、やっぱり得意げに聞いてきた。
そういう可愛いおっちゃんなんだよな、この人は。(--;)

いえ、ワシなんか全然出来ないっすけど、あんたはどうなん?

「僕はね、ほら、キミと違ってもうバッチリよ。(^^)v」

おいおい、どこがどうバッチリなんだかゆーてみろや。

「ほら、僕の心の中の菩提心ってゆーの?わかる?その慈悲の心の種が育つようにお釈迦様が僕に栄養となる甘露を注ぐワケよ。たくさんたくさん甘露が注がれて溢れる感じを観想するって感じかな。」

おめぇよぉ〜、それって護摩法要の時にチベットの坊さんが言ってた言葉そのまんまじゃねぇ〜かよっ。。。(--;)
ついでにそれは観想であって瞑想じゃねぇっつーの!

「キミの妄想より千倍マシだと思うけどね。」

どこへ行ってもアホアホ夫婦だな。
お互いロクに瞑想もできんくせに、こんなとこにノコノコは入りこんじまったってことか。。。
バチが当たらなきゃいいな。(>_<)

少なくとも1時間、時間があれば何時間でも瞑想するという友達に尋ねてみた。

ねぇ、どうして瞑想するの?

「心がリラックスするから。
 リラックスすれば、どんなことでも良い方に向くよ。
 心をリラックスさせないと、イケナイ人間になるよ。
 そんなんじゃ、グッドラックもやって来ないよ。」

うん、ちょっとだけわかる気がする。

でも、どうやって瞑想してるんだろう?
基本的なことが私はわかっていない。
何も考えないのが瞑想なのかと思うけど、そうでもないらしい。

「気」の勉強をしている人から聞いた話だが、間違えた方法で瞑想すると瞑想した気分になるだけで、それは「無」の境地ではなく「魔」の境地、すなわち「魔境」に入ってしまうらしい。
それはとても恐ろしいことなので、素人が瞑想まがいなことをするものではないと言ってた。
きちんと瞑想の方法を指導してもらうのがホントは良いそうだ。
私には、そういう師がいないので、今まで瞑想を試みたことがない。
(逆にそういう師がいるのも怖い話だ)

ブームのヨガに行っている人に瞑想もするの?と聞いたことがある。
その教室では、毎レッスンの最後に瞑想をするという。
何を瞑想するのかと問えば、今日1日のことを一つ一つ振りかえることだと言ってた。
それって瞑想?
回想じゃないの?
ま、お教室のヨガだとそんなもんなのかもしれない。
ヨガは喩我であり、その最高の修行は瞑想なのに、ブームに乗るのは美容体操もどきばかりだ。
本質を伝えると宗教がかってしまうので、そうなると敬遠されてしまう。
私の知っているヨガの先生達は、ちゃんと本質も勉強している人たちなので、この辺りの匙加減が難しく、健康体操でも良しと割り切って活動していると言ってた。
呼吸法の大切さを伝えるだけでも本質の一部に触れることにはなるのだから。

あぐらが組めないとか、時間がないとか、私は今まで逃げてばかりいた。
少しの時間でも心を落ち着かせる時間を持つことの大切さを身を持って知ったのだから、これからは正しい方法を勉強して実践してみようと思った。

そしてタイへ行くたびに、私はお寺に出向くことにしよう。
たとえ瞑想する時間がなくても、そこに行けばリラックスする。
人が本当に望んでいるものが何なのか、言葉にできない答えがそこにはある。
人の優しさやふれあいの大切さが、それを教えてくれることだろう。

2007/06/19

24. カラオケ

カラオケは好きですか?
ワシは嫌いじゃないけど、昭和の歌しか歌えないコンプレックスと時間がないという物理的問題において、あまりカラオケには行かない。
そう、日本ではの話し。

こんなワシでもチェンマイで2回、バンコクで2回、流れに乗ってカラオケに行ってしまった。
タイのカラオケにも数種類あることを知った。

まず、バンコクのショッピングセンターの隅においてあるカプセルカラオケ。
日本で言うと、ゲーセンにカラオケが置いてあるような感覚だ。
ショッピングのついでに楽しもうみたいな軽いノリだ。
カプセル型のもあれば、ちょっとした部屋構造になっているのもあるし、仕切りも何もないところでノリノリで歌っていたりするのもある。
これらはほとんどが防音効果がない。
外に丸聞こえだ。
学校の休みの時は小学生がお得意様のようで、小さなカプセルに4〜5人入りこんで興じている。
タイポップスに限らず、子ども達の間ではコリアポップスもメジャーなようだ。
韓流、恐るべし!

大きなカラオケボックスもタイにはある。
日本のものとよく似ている。
これらは主に若い子たちがお得意様のようだ。
タイの歌の他にも英語も日本語も中国語も韓国語も意外とヒットソングが満載だ。
ワシはチャイナドールをこれで覚えた。
あんまり自慢にはなりゃしない。

よくあるのは、なんだかエロエロな匂いのするカラオケだ。
カラオケが置いてあるだけで、システムはなんらゴーゴーバーと変わらない。
場末っぽくなればなるほど、オネエチャン達の密着率とお持ち帰り可能率も高くなる。
こんなカラオケも行ったことがある。
そこのオーナーさんとちょっと知り合いになったので、軽く接待を受けたというノリだ。
ワシの性別が一応女なので、部屋に入るとビールをついでくれるオネエチャンだけが入ってきた。
そこのカラオケマシーンは意外とハイテクで日本語の歌が充実していた。
・・・やはり日本のおっさんがお得意様なのだろう。
違う部屋をのぞくと、お一人様に付きお二人くらいオネエチャンを侍らせて、嬉しそうに興じているおっさん連中がはしゃいでいた。
確かに、日本じゃそんな可愛い女の子がそのお値段であんたにはチヤホヤしてくれんでな・・・(--;)
お金で解決の大人の社交場だ。

チェンマイではローカルな人だけが集まるカラオケにも行った。
仲良しになった兄さんが連れて行ってくれた。
ピン川沿いではあるがローカルな側にある大きなステージ付きのカラオケだ。
土日は満員になるらしいが、かなりな席数を持つ野外レストランって感じだ。
そこは、テーブルに番号があり、その順番で歌う番が回ってくる。
例えば4人席で混んでいたら、テーブルの1人が2曲までしか歌えない。
続けて同じテーブルの人が歌うのは出来ず、次のテーブル順を待つ。
2曲を分けて1人1曲ずつというのもありだが、みんな歌いに来ているので、持ち歌2曲は暗黙の了解らしい。
空いていれば、2人まで歌える。
2曲ずついいので、1テーブル4曲までいい。

そこのカラオケは、ステージの横にDJみたいな人がいて、その人に曲名を申告すればカラオケをセットしてくれる。
そんでもって、DJの前にはマイクやタンバリンやマラカスもあって、コーラスやノリノリ部隊は彼が1人でこなしてくれる。
ステージに上がって歌う人も、自分で前説を入れたり歌の終わりに一言あったりで、まるで歌手の気分が味わえる。
もちろんレストランなので食べ物は何でもあり、飲み物も何でもありだ。
真面目に歌いたい人だけが集まるようだ。
歌声喫茶みたいな感じというか、なんというか、、、、嬉しそうに歌っている姿がちょっとイタイ感漂う。
でも、おもしろい。
日本の歌はないと言われて諦めたが(意外とステージに立つ気満々だったわけだな)、日本の歌が普通にタイ語の歌に変わっているのを発見した。
一緒に行った兄さんが歌った中に、どう聞いても渥美二郎の「夢追い酒」と喜納昌吉の「花」があった。
それは日本の歌でしょ?と聞いても、タイの歌手の歌だという。
うまいことリメイクされてんだなぁ。。。。
あゆや嵐の歌は、彼らの歌として日本の歌として認識されてんのに、、、ねぇ。。。(>_<)
今度あのレストランに行ったら、DJに鼻歌をきかせてテレサテンを出してもらおう。

バンコクのローカル食堂では、意外とカラオケマシーンがあったりする。
その場合は全部タイ語の歌でタイ人が楽しそうに歌っている。
ワシは普通にメシ食いにきただけなんだけど、へたくそなタイ人の歌声をきかせられる羽目に合う。

不測の事態に備えてやはりタイ語の歌を一曲くらいは歌えるといいだろう。
ワシにとっては最近の日本の歌を覚えるのもタイ語の歌を覚えるのも使う労力は同じようなもんだ。
どちらも外国語にしか聞こえないのだから。