2006/09/08

17. 最期のとき

旦那に言わせると、悪趣味この上ないそうだが、私はヒンズーの火葬の風景が好きだ。

荼毘に伏していく煙をガートの対岸で眺めているのが好きだ。
肉体の消滅を目の当たりにすると、不思議と生きていることを実感する。

パシュパティナートのガートは、川の上流から階層が分かれていて、上の方は王室関係の方々のガートなので一般ピープルが拝見することはできない。
普通にお目にかかれるのは、下流の3つくらい。
説明が遅れたが、パシュパティナートというのは、カトマンズ市内にあるヒンズー教徒の火葬場だ。
ネパール観光ルートの一つにもなっていて、外国人は入り口で入場料を払えば誰でも入場することができる。

川をはさんでガート(死体焼き場)のある方は寺院になっている。
対岸は見物できる堤防になっていて、その背面はサドゥー(修行者)たちの宿場にもなっているところだ。
不思議なもので、いつもどなたかが火葬されているので、少し待っていれば次々と火葬風景を見ることができる。

運良く、運ばれたばかりの遺体に遭遇できた。
日本では霊柩車にのせて重々しく運ばれて、火葬場職員もスーツを着て、遺族に無礼のないような対応を心がけていると思う。
しかし、運ばれてきた方は、棺桶じゃなく段ボール箱に入って、普通のライトバン(しかもボロボロ)に乗せられてやってきた。
遺体を火葬する職員はなんともラフな普段着で、4人1チームで動いているようだった。
遺族たちは、運ばれてきた人が生前大切にしていたモノなどを身につけさせてあげる。
キャンプファイヤーの台上みたいなものがガートの上に作られ、そこに寝ころばされた遺体は黄色いような布にくるまれて、遺族と最後の別れをする。
別れの儀式はいとも簡単に済まされる。
4人1チームの職員は、ヒンズーの儀式にのっとって火葬を進めていく。
聖水をふりかけたり、ガートの回りを何周か回ったりして、台の下に薪や藁が寄せられて着火となるのだ。

てきぱきと火葬が進められていく前の川では、前の燃えかすの薪を一輪車で集める親子が忙しく働いている。
子供たちが遺体が身につけていたお宝を川の底から広い集めている。
程度のイイ物はどこかの露店で売られるのだろう。

堤防の真下には水道口がある。
サドゥーが手や顔を洗ったり、水を飲んだりしている。
近所の食堂のオネエサンが汚れた食器を川ですすぎ、水道で洗い流している。
サリーをまとったおばさんが、石鹸一つ持ってやって来て、おもむろに脱ぎだし、川で沐浴した後、サリーを洗濯しだした。
堤防に干して乾かしている間、長い黒髪を洗濯したのと同じ石鹸でシャンプーしていた。
川はあまり深くないと思う。
深いところでも膝〜腰くらいだろう。

今から最後の儀式をしようというその向こうで、ありふれた日常がざわざわと動いている。
堤防に座っている観光客は写真を撮ったりビデオを撮ったり。
「確かにここは観光地だけど、人が焼かれる様子をビデオに撮ってしまうのは、ふとどき千万なヤツめ!バチが当たるぞ!」と旦那にぽそっと漏らしたら、「悪趣味なあんたは人のこと言えん。目くそ鼻くそ、五十歩五十一歩だ!」と言われた。

小柄な人で2時間くらいで火葬される。
途中、職員さんが焼け加減を確認して、レアだと固形燃料のようなものを追加投入する。
焼き終わった遺体は、棒でつついて川へ落とす。
お宝探しの子供たちと薪拾いの親子が群がる。
ガートのものはすべて落とされ、また新しい台が設置されて新客が入る。
対岸で火葬風景を興味深げに見る観光客。
洗濯や炊事、洗顔、はみがきをする人々。
川底を掃除する人たち。
火葬場なのに、営まれている生ばかりが気になってしまった。
荼毘に伏す煙は、ネパールの渇いた空気に溶けていく。

さっきまで暑かったのに、なんだかブルッと小寒くなってきた。
時間の流れは空気が教えてくれる。
でも、なんかいいなぁ。
最期のときを涙だけで飾ることなく、これからの活力に変えていく力を与えてくれているような気がする。

遺族の方も泣いてばかりじゃいられない。
悲しみは悲しみだけど、これから生きて行かなくちゃ。
母さんは家に帰ってダルを作らなくちゃ。
今日があることに感謝して、未来が幸せであることを願ってお寺に行かなくちゃ。
形式ばかりにとらわれて行われる法要もここにはない。
信ずる神様があるから。

肉体は消滅しても、残された家族がいるということは、その人が生きた最大で最高の証のような気がした。
金品や財産を残さなくとも、自分を覚えていてくれる人がわずかでもいるということは、とっても幸せなんだろうな。

生と死は隔離されることなく、いつも隣り合わせなんだろうね。

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